朱印、墨書ともには「鶴岡八幡宮」。
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鶴岡八幡宮 (つるがおかはちまんぐう) | |
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御祭神 | 応神天皇〔おうじんてんのう〕 比売神〔ひめがみ〕 神功皇后〔じんぐうこうごう〕 |
鎮座地 | 神奈川県鎌倉市雪ノ下二丁目1−13 (Mapion/googlemap) |
創建年代 | 康平6年(1063) |
社格等 | 相模国一宮 旧国幣中社 別表神社 |
由緒 | 宇佐八幡、石清水八幡とともに三大八幡と称される(ただし、一説には鶴岡八幡のかわりに筥崎宮を入れる)。明治の神仏分離までは鶴岡八幡宮寺という神仏習合の宮寺であった。 『吾妻鏡』などによれば、源頼義は奥州の安倍氏を征討するにあたり、石清水八幡宮に戦勝を祈願した。康平6年(1063)奥州より凱旋した源頼義は奉斎として鎌倉の由比ヶ浜に密かに石清水八幡を奉斎した。これが現在の由比若宮(元八幡)で、鶴岡八幡宮の創祀とされる。永保元年(1081)源義家はこれを修復した。 治承4年(1080)鎌倉に入った源頼朝は由比若宮を遙拝するとともに、小林郷の現社地にこれを遷した(鶴岡若宮)。これは、頼義・義家の功業を継承することを表していると考えられている。 翌5年(1081)頼朝の命により鶴岡若宮の造営を開始。鎌倉には適当な大工がいなかったので、浅草から招いたという。寿永元年(1082)には北条政子の安産を願い、参道(若宮大路)、源平池などを造成、さらに末社として熱田神宮(頼朝の母は熱田の大宮司の娘で外戚神として崇敬)・三嶋大社(伊豆に配流されてより崇敬篤く、源氏の再興を祈願し、その祭礼の日に旗挙げをした)などを勧請した。 建久2年(1191)祝融の災により社殿などが烏有に帰した。頼朝は焼け跡の礎石を前にして涕泣したという。 頼朝は即座に再建を命じた。この時、若宮の背後の山を切り開き、本宮を建立して正式に石清水八幡宮を勧請した。ここに上宮(本宮)と下宮(若宮)からなる現在の形が整えられた。 翌3年(1192)頼朝は三浦義澄に命じ、征夷大将軍宣下の除書を当社の神前において拝受させている。また、歴代将軍は年頭に鶴岡八幡宮寺に参詣することを例とし、幕府の行事や儀式もここで行われるなど、鎌倉幕府の精神的中心となった。頼朝による当社の崇敬は後の武将の模範となり、足利氏・小田原北条氏・徳川氏にまで受け継がれた。また、武家による支配の拡大に伴い、全国各地に鶴岡八幡の御分霊が勧請された。 明治元年(1868)の神仏分離により、「鶴岡八幡宮寺」は「鶴岡八幡宮」と改められ、境内の仏殿・仏堂や仏像・仏具はことごとく取り除かれた。同15年(1982)国幣中社に昇格。現在は鎌倉観光の中心として多くの参拝客が訪れている。 |
例祭 | 9月15日 |
神事・行事 | 1月1日〜7日/御判行事 1月4日/手斧始祭 1月5日/除魔神事 1月15日/左義長神事 節分前直近の土日を含む三日間/厄除大祭 5月5日/菖蒲祭 6月上旬/蛍放生祭 立秋の前日/夏越祭 立秋/立秋祭 8月9日/実朝祭 12月16日/御鎮座記念祭 |
文化財 | 〈国宝〉古神宝類(神服類) 古神宝類(刀剣武具類) 籬菊螺鈿蒔絵硯箱 太刀(銘:正恒) 〈重要文化財〉大鳥居(一の鳥居) 末社丸山稲荷本殿 摂社若宮 上宮本殿・幣殿・拝殿 上宮廻廊 上宮末社武内社本殿 太刀三口(各銘:相州住綱広作・綱家作・康国作)桐鳳凰蒔絵糸巻太刀拵 太刀(金銘:国吉) 太刀(銘:長光) 木造舞楽面(稜王・散手・貴徳鯉口・貴徳番子・二ノ舞) 木造弁才天坐像 木造菩薩面 紙本墨書鶴岡社務記録 鶴岡八幡宮文書(224通) 紙本墨書鶴岡八幡宮修営目論見絵図 〈県有形文化財〉銅製亀甲花菱文象嵌擬宝珠 堆黒箱 〈県有形民俗文化財〉獅子型墨壺 神輿7基 〈史跡〉鶴岡八幡宮境内 |
公式サイト | http://www.hachimangu.or.jp/ |
メモ | 御朱印拝受は3度目の参拝時。ただし、この時は舞殿が改修中だったため、思うような写真が撮れなかった。しかも鎌倉観光の中心だけあって、あふれるような参拝客・観光客である。写真を撮ったのは初冬の晴れた日曜日。早めの時間だったので、まだ参拝者は少なかった。しかし、参拝を終え、一通り写真を撮った頃には人がだいぶん増えていた。 御朱印は本社の他、旗上弁財天社で鎌倉江の島七福神(弁財天)の御朱印をいただくことができる。 |
大鳥居 | 白旗神社 |
由比若宮遙拝所 | 若宮(下宮) |
舞殿 | 楼門 |
朱印、墨書ともには「鶴岡八幡宮」。
2009.01.04
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