三種の神器の一つである草薙神剣〔くさなぎのみつるぎ〕を祀り、伊勢の神宮に次ぐ由緒を持つ大社とされる。御祭神の熱田大神は草薙神剣を御霊代として斎き祀る天照大神のことである。
草薙神剣は、素盞嗚尊が八岐大蛇〔やまたのおろち〕を退治したときに得て、天照大神に献上された天叢雲剣〔あめのむらくものつるぎ〕である。天孫降臨に際し、天照大神より瓊々杵尊〔ににぎのみこと〕に授けられた。以来、天皇と同殿に祀られていたが、崇神天皇の御代、八咫鏡〔やたのかがみ〕とともに別殿に遷し祀られ、諸国を巡行して伊勢に遷った。
日本武尊は東夷征伐に際し、伊勢を訪れて、倭姫命〔やまとひめのみこと〕からこの剣を授かった。駿河国で計略にかかったとき、草を薙ぎ払って危地を脱し、夷賊を平定したことから草薙神剣と称されるようになった。
宮簀姫命は日本武尊の妃で、尾張国造に任じられた乎止与命〔おとよのみこと〕の娘。境外摂社の氷上姉子神社に祀られる。建稲種命は宮簀姫の兄で、日本武尊の副将として東夷征伐に従い、伊豆の海上で薨じた。因みに式内小社・田縣神社の祭神・玉姫命は建稲種命の妻とされる。
日本武尊が能褒野〔のぼの〕で薨去された後、神剣は宮簀媛命により熱田の地に祀られた。以来、尾張氏によって奉斎された。
天智天皇7年(668)新羅の僧・道行が神剣を盗み出し、新羅に持ち帰ろうとしたが、嵐のために難波に漂着し、神剣は皇居に祀られるようになった。しかし朱鳥元年(686)天武天皇の病について卜したところ、神剣の祟りとされたため、熱田社に戻された。
朝廷・武家の崇敬極めて篤く、弘仁13年(822)従四位下を授かったのに始まり、貞観元年(859)には正二位、後に正一位に極位する。『延喜式』では名神大社に列した。
熱田神宮の大宮司は尾張氏が世襲してきたが、平安後期、員職のときに外孫で藤原南家の季範に譲られた。以来、大宮司は藤原姓となり、後に千秋氏を称することになる。季範の娘は源義朝に嫁ぎ、頼朝を生んだ。そのため、頼朝は深く熱田神宮を崇敬した。
社殿の修造においては、足利義持・義政・義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、綱吉、歴代尾張藩主によってなされ、江戸時代には社領として御供料405石、大宮司領717石などが寄進された。
明治元年(1868)には神宮号が宣下され、同26年(1893)にはそれまでの尾張造から神明造に改められた。大正6年(1917)勅祭社に列する。昭和20年(1945)米軍の空襲により大半が焼失したが、同30年(1955)に復興した。
なお、境内に残る信長塀は、永禄3年(1560)桶狭間の合戦における戦勝の奉賽として織田信長が奉納した塀である。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀とともに日本三大塀と称される。