若狭彦神社は上社と下社からなり、古来、上社を若狭彦神社・若狭国鎮守一宮、下社を若狭姫神社・若狭国鎮守二宮、または遠敷明神と称える。延喜式神名帳には「若狭比古神社二坐 名神大」とある。若狭国の一宮は上社で、二宮が下社だが、両方を合わせて一宮ともされる。
遠敷川を遡ると鵜の瀬という淵がある。社伝によれば、和銅7年この地に若狭彦神と若狭姫神が降臨されたので、仮殿を営んで奉斎した。そして翌霊亀元年(715)若狭彦神が龍前の現社地に遷座され、さらに6年後の養老5年(721)2月10日、若狭姫神が遠敷の現社地に遷座されたという。
かつて、例祭は若狭姫神が鎮座された2月10日に行われていたが、明治に太陽暦が導入された際、1ヶ月遅れの3月10日に行われるようになった。
また、鵜の瀬は奈良・東大寺の若狭井に通じているとされ、お水送りの行事が行われることでも有名である。
伝承によれば、天平勝宝3年(751)東大寺の実忠和尚は、笠置の山中より兜率天の内院に至り、そこで天人たちが十一面悔過の行法を行っているのを見た。天人の許しを得て、この行法を地上に伝えたのが東大寺の修二会とされる。
翌4年(752)、実忠はこの法会を行うにあたり、日本国中の神々を勧請した。しかし遠敷明神だけは川で魚を捕っていたため、遅れてしまった。そこで遠敷明神はお詫びとして、御本尊に供える香水を若狭から贈ることを約束した。すると、岩から黒と白の鵜が飛び出し、そこから水が湧き出した。これが東大寺二月堂の若狭井である。
この約束により、東大寺のお水取りに先立って、鵜の瀬でお水送りの行事が行われる。3月2日に鵜の瀬から送られた水は、10日かけて若狭井へとどき、3月12日にお水取りが行われるのである。現在、お水送りは旧別当の神宮寺の行事となっている。
古来、朝廷の崇敬篤く、神護景雲4年(770)には伊勢朝臣諸人が遣わされて鹿毛の馬が奉納され、大同元年(806)には神封10戸を賜っている。貞観元年(859)には若狭比咩神に従二位が贈られている(若狭彦神は正二位)。また、一代一度の大神宝使にも預かっている。武門においても歴代守護・小浜藩主による社領の寄進などたびたびであった。
鎌倉時代から室町時代の初め頃までは上社(若狭彦神社)が祭祀の中心であったが、室町時代末期頃には下社(若狭姫神社)が中心となり、主な祭祀も下社で行われるようになったという。