浅間神社・神部神社・大歳御祖神社は本来由緒の異なる独立の神社であった、古くから賤機山〔しずはたやま〕の麓の同一境内に鎮座し、静岡浅間神社と総称される。明治21年(1888)にはそれぞれ国幣小社に昇格、戦後も独立した宗教法人として登録されていたが、昭和52年(1977)一つの宗教法人となった。
神部神社は崇神天皇の御代の鎮座と伝えられ、駿河の国魂の神を祀る。国府が当地に移転してからは国司の崇敬を受けた。延喜の制では小社に列し、駿河国の総社とされた。
浅間神社は、延喜元年(901)醍醐天皇の勅願により、駿河国一宮・富士山本宮浅間大社の御分霊を勧請して創建された。そのため、本宮に対して「富士新宮」と称する。
現在、両社は一つの比翼三間社流造の本殿に、合の間をはさんで向かって左に浅間神社、右に神部神社が祀られている。
大歳御祖神社は賤機山の南に鎮座する。延喜式内社で、かつては奈吾屋明神と称され、万葉集にも見える安倍の市の守護神であったという。ただし奈吾屋社と大歳御祖神社は別だったとする説もある。
主祭神の大歳御祖神は別名・神大市比売命とされる。『古事記』によれば、神大市比売命は大歳神と宇迦之御魂神の母神である。
三社は朝廷・武門の崇敬篤く、鎌倉幕府・今川氏・武田氏などが社殿の造営や社領の寄進・安堵を行っている。特に徳川家康が浅間神社で元服するなど深く当社を崇敬したことから、徳川将軍家においては歴代将軍の祈願所とされ、深く尊崇された。三社の社領等の総石高は2313石であったという。
現在の社殿は、文化元年(1804)から60年の歳月と10万両の大金をかけて造営されたもので、「東海の日光」と称される。ことに浅間神社・神部神社の大拝殿は高さ25mに及ぶ浅間造で、立川流の傑作とされる。大歳御祖神社の本殿は天保7年(1836)に完成した三間社流造で重要文化財。同年完成の拝殿、翌年完成の楼門は第二次大戦の空襲で焼失し、現在のものは戦後の再建である。
賤機山上に鎮座する麓山神社は「山宮」と称され、宮元八ヶ町の氏神である。明治12年(1879)独立の神社として郷社に列したが、同21年(1888)三社が国幣小社に昇格した際、その別宮とされた。御祭神は大山祇神で、浅間神社の御祭神・木花咲耶姫命の父神に当たる。4月と11月に行われる昇祭・降祭は、浅間神社の木花咲耶姫命が麓山神社の大山祇命を見舞うという神事である。
境内社の少彦名神社はもと神宮司薬師社と称した。神部神社の御祭神・大己貴命とともに国土を開拓した少彦名命を主祭神とし、神部神社の末社十四社の神々を祀る。八千戈神社はもとの摩利支天社。大己貴命の荒魂である八千戈命を主祭神に、かつて境内にあった末社・十八社の神々を祀る。玉鉾神社には国学の四大人を祀る。