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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

宗忠神社
むねただじんじゃ

宗忠神社拝殿

宗忠神社 (むねただじんじゃ)
御祭神 教祖宗忠大神〔きょうそ むねただ おおかみ〕
通称 大元神社
鎮座地 岡山市北区上中野1丁目3−10 (Mapion/googlemap
創建年代 明治18年(1885)
社格等 旧黒住教本部
由緒 御祭神・教祖宗忠大神(黒住宗忠)は教派神道十三派の一・黒住教の教祖。その生誕の地に鎮座する。当地を通称「大元」というが、これは宗忠の教えが「神道の教えの大元」と称えられたことに因むという(注1)。周辺にはJR大元駅や大元小学校などがある。
黒住宗忠は安永9年(1780)11月26日(旧暦)の冬至の日、備前国御野郡上中野村に、代々今村宮(宗忠神社の西500mほどのところに鎮座する)の禰宜を勤める黒住宗繁の三男として生まれた。
幼少の頃より孝心篤く、真の親孝行とはということを自問し続けた末、20歳の頃「生きながら神になる」という志を立て、「心に悪いと思うことを決して行わず、善きことのみを実行する」という実践を行った。享和3年(1803)初めて伊勢神宮に参詣し、文政8年(1825)には伊勢講をつくっている。
文化9年(1812)流行病のために両親を1週間ほどのうちに亡くしてしまう。その悲しみが元で自らも病に冒され、同11年(1814)正月には危篤状態になった。死を覚悟した宗忠は、旧暦1月19日の厳寒の朝、今生の別れに最後の日拝(日の出を拝すること)を行った。
この時、両親の死を悲しみ、心を痛めて陰気になったことが病気の原因であり、それは大変な親不孝であることに気づいた。そして、せめて生きている間は心を陽気にし、明るく心を養うことこそ真の親孝行であると心機一転すると、病が軽くなった。とはいえ病状は重いままであったが、2ヶ月後、妻が止めるのも聞かずに入浴し、縁側に這い出て日拝を行うと病が一時に全快した。
同年11月11日、陰極まって陽に転ずる冬至の日、日拝を行っているときに天照大神と自己が同魂同体であるという神秘体験をした。これを黒住教では「天命直綬」と呼び、この日を立教の日としている。
以来、今村宮に禰宜として奉仕するかたわら、まじないと講釈によって布教活動を始め、病を癒された人や宗忠の人柄、あるいは教えに感銘を受けた多くの人々が門人・信者となった。
嘉永3年(1850)に数え71歳で昇天するが、その後も六高弟を中心に布教が進められた。中でも赤木忠春は京都へ出て布教を開始するとともに、黒住教の合法化のために尽力、安政3年(1856)吉田家を通じて「宗忠大明神」の神号を授かった。さらに関白九条尚忠の娘の病を治したことから公卿にも入信するものが現れた。文久2年(1862)には吉田山(神楽岡)に宗忠神社が創建され、孝明天皇の勅願所とされている。
その後、教祖の生誕地にも神社を建立しようという気運が盛り上がり、明治18年(1885)大元の地に宗忠神社の鎮座となった。翌19年(1886)には、御祭神の御分霊を奉斎した鳳輦が、かつて神前に奉仕した今村宮へお目通りするという御神幸が執り行われている。この御神幸は、岡山市民の要望により同24年(1991)後楽園を御旅所として岡山市中を巡行することとなり、現在では「岡山さくらカーニバル」の中心行事となっている。
また、当地は黒住教立教以来、教団の本部が置かれていたが、昭和49年(1974)岡山市北区尾上の神道山に移転している。
例祭 4月第1日曜日の前日
神事・行事 1月15日/どんど祭
2月3日/節分祭
4月第1日曜日/御神幸
4月29日/筆まつり
7月第4または第5日曜日/大祓い夏祭り
12月冬至/冬至祭
公式サイト http://www.munetada.jp/
メモ 初めて宗忠神社へ参拝したのは平成4年のことと記憶しているので、十数年ぶり2回目の参拝であった。当時は某教団の機関紙の記者になったばかりのころで、岡山出張のついでに、地元支部の責任者に勧められ、一日かけて金光教の本部や備前市の鼻塚などをまわり、その締めくくりが宗忠神社だった。既に日が暮れかけ、神殿がオレンジ色の燈火に照らし出されていた様子が印象に残っている。
御朱印を拝受した2回目の参拝は、実家に帰省して東京に帰る途中、岡山市内の神社を巡拝したとき。すでに日が西に傾いており、東向きの社殿を撮影すると逆光になった。その後も今村宮などを巡る予定のために慌ただしい参拝となり、教祖記念館などは省略した。いずれ、ゆっくりと参拝したいものである。
参考…注1 教祖没後の嘉永6年(1853)二代教主・黒住宗信や七人の高弟を中心として「伊勢千人参り」が執り行われた。一行が伊勢の宮川にさしかかったとき、足の不自由な人がいた。そこで岡本京左衛門という人が一心にお取り次ぎをしたところ、立てるようになった。これが伊勢の町の評判となったため、人心を惑わすものとして京左衛門は捕らえられてしまった。そして、国学者でもある外宮の神官・足代弘訓の立ち会いで吟味が始まった。京左衛門の説く黒住の教えに足代弘訓は感銘を受け、「神道の大元はここ伊勢だが、教えの大元は備前の中野である」と述懐したという(参考:『私たちはなぜ伊勢神宮式年遷宮ご奉賛につとめるか』黒住教本部)。
社前風景 備前焼の手水鉢
社前風景 備前焼の手水鉢
天満宮 住吉宮
天満宮 住吉宮
高弟社 本殿
高弟社 本殿
宗忠神社の御朱印  

中央の墨書は「大元 宗忠神社」。上の朱印は「大元」、中央は「宗忠神社」。

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2011.11.23
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