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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

土佐神社
とさじんじゃ

土佐神社、入蜻蛉造の社殿

土佐神社 (とさじんじゃ)
御祭神 味鋤高彦根神 一言主神
鎮座地 高知県高知市一宮しなね二丁目16−1 (Mapion/googlemap
社格等 土佐国一宮 式内社(大) 旧国幣中社 別表神社
公式サイト http://www.tosajinja.i-tosa.com/

土佐神社の御由緒

江戸時代以前は高賀茂大社・高賀茂大明神として知られたが、明治4年(1871)現在の社号に改めた。また、俗に志那禰〔しなね〕様と呼ばれるが、その意味はわかっていない。

創建については不詳だが、古くは境内の「礫石〔つぶていし〕」を磐座〔いわくら〕として祭祀を執り行っていたと考えられ、その起源は古代にさかのぼるだろうという。『日本書紀』天武天皇4年(675)3月2日条には「土左大神〔とさのおおかみ〕が神刀を以て天皇に進る」という記事がある。

御祭神については、『土佐国風土記』逸文に一言主尊とするが、一説に味鋤高彦根尊ともいうとある。どちらの神も大和国の賀茂氏が奉斎していた神であり、その一族が土佐国造に任じられたことから祀られるようになったのであろうという。現在では両神を祭神としている。

社伝によれば、雄略天皇4年(460)、御祭神・高賀茂神は天皇の怒りに触れ、土佐国に流された(典拠は『続日本紀』)。当初、高岡郡浦の内(須崎市の鳴無神社〔おとなしじんじゃ〕とされる)に鎮座されたが、ある時、「この地は神慮に適わず」として石を取り、「この石が落ちたところに宮を建てよ」と託宣した。そのとき投げた石が「礫石」であり、これが落ちた現在の地を社地とすることになったという。

この由緒により、往古は例祭の志那禰祭に鳴無神社まで船遊の神幸があった。しかしある年、嵐を避けて磯伝いに神輿を渡御していたところ、狼の大群が現れて供奉の神人が危険にさらされたため、鳴無神社までの神幸を取りやめ、五台山の麓の小一宮までの渡御となり、さらに近世には楼門までとなったという。

古くより朝廷・武門の崇敬篤く、延喜の制では都佐坐神社として大社に列した。また天慶3年(940)には、承平5年(935)の藤原純友の乱鎮定の祈祷の功により正一位に極位した。

中世以降は土佐国一宮として尊崇され、別当の神宮寺・善楽寺と一体の神仏習合の霊場として栄えた。また、四国八十八ヶ所の第30番札所ともされていた

現在の社殿は元亀元年(1570)に長宗我部元親が再建したもので、重要文化財に指定されている。本殿は向拝のついた入母屋造。上から見ると幣殿・拝殿・左右の翼・長い拝の出が十字型になった入蜻蛉造〔いりとんぼづくり〕という珍しい様式である。幣殿をトンボの頭、拝殿を胴体、拝の出を尾、左右の翼を羽として、本殿にトンボが飛び込む姿に見立てるもので、凱旋を報告する社の意味があるという。

因みに、高知市長浜の若宮八幡宮は出陣先勝祈願の社で、本殿から蜻蛉が飛び出す姿に見立てた出蜻蛉造〔でとんぼづくり〕となっている。

土佐神社の御朱印

土佐神社の御朱印

中央の朱印は「土佐神社」、右上は「土佐國一宮。

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土佐神社の概要

名称 土佐神社
旧称・通称 都佐坐神社 高賀茂大社 高賀茂大明神 志那禰(しなね)様
御祭神 味鋤高彦根神〔あじすきたかひこねのかみ〕
一言主神〔ひとことぬしのかみ〕
鎮座地 高知県高知市一宮しなね二丁目16−1
創建年代 不詳
社格等 土佐国一宮 式内社 旧国幣中社 別表神社
延喜式 土佐國土佐郡 都佐坐神社 大
例祭 8月24日・25日(しなね祭)
神事・行事 1月第3日曜日/射初祭
3月11〜13日/斎籠祭
10月8日/秋祭
文化財 〈重文〉本殿・幣殿・拝殿 鼓楼 楼門
鳥居 鼓楼
鳥居 鼓楼
事代主神社・西御前社・大国主神社 厳島神社
事代主神社・西御前社・大国主神社 厳島神社
つぶて石 本殿
礫石(つぶて石) 本殿

メモ
二度目の四国八十八ヶ所巡拝の途中に参拝。しかし、ここに来る途中、29番奥の院の毘沙門堂を探すのに手間取り、時間がなくなったため慌ただしい参拝となり、重要文化財の楼門も見られなかった。いずれ、また参拝したいものである。

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2009.11.18
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