中央の墨書は薬師如来の種字「ベイ」に「薬師如来」、脇に「弘法大師」。中央の朱印は同じく薬師如来の種字「ベイ」、 右上は「?」、左上は「第五十番」、左下は「大徳院」。
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高野山 金剛閣 大徳院 (こうやさん こんごうかく だいとくいん) | |
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本尊 | 薬師瑠璃光如来 |
創建年代 | 寛永年間(1624〜44) |
開山 | 宥雅法印 |
宗派 | 高野山真言宗 |
所在地 | 東京都墨田区両国二丁目7−13 (Mapion/googlemap) |
御詠歌 | よろずこそ繁多なりとも怠らず 諸病なかれと望み祈れよ |
メモ | 大徳院の歴史について、ネット上の情報や手元の資料を見ると、特に創建に関しては高野山の大徳院(現在の蓮花院)と江戸の大徳院の情報が錯綜している。そこで、もっとも妥当と思われる形に整理してみたいと思う。 高野山の大徳院は高野三方のうち聖方の本寺で、元は蓮花院と称し、現在、南院がある場所にあったという。開基は弘法大師で、弘仁8年(817)弘法大師が高野山を開いた際、軍荼利明王の秘法を修して結界を結んだ草庵に始まり、この時、八葉の白蓮中に瑞光が現れたことにより蓮花院と号したという。 古くから徳川家とのつながりが深く、家康の八代前の祖・松平親氏が師檀関係を結んだとされる。大永5年(1525)家康の祖父・松平清康の遺骨が納められた際、光徳院と改められた。さらに文禄3年(1594)、徳川家康が豊臣秀吉に従って高野山に参詣した際、弘法大師の「大」と徳川家の「徳」を合わせて大徳院と改号した。大徳院中興とされる宥雅法印は、元は家康の陣営に随従していたが、天正8年(1580)に家康が堂宇を再建した際、住職として入るよう命じられたことが伝えられる。 寛永10年(1633)頃、宥雅法印は東照宮の造営に着手、同16年(1639)正式に徳川家光の認可を受け、同20年(1643)に落慶した。これが現在の徳川家霊台であり、大徳院はその別当として御宮別当を称した。 江戸の大徳院は、宥雅法印が高野山聖方の総触頭、大徳院の在番所(出張所)として寛永年間(1624〜44)神田紺屋町に屋敷を拝領したことに始まる。寛文6年(1666)本所猿江へ移転、さらに貞享元年(1684)両国の現在地に1200坪の土地を拝領した。 明治になり、高野山の大徳院は旧地から移転し、他寺院と合併して蓮花院の旧称に復した。大徳院の寺基は両国の大徳院に移され、また「紀伊高野山宗務伝達所」となったが、明治18年(1885)公的機能を天門山長寿寺(現在の高野山東京別院)に返上し、以来、一地方寺院となった。 本尊の薬師瑠璃光如来は「本所一つ目寅薬師」と称され、特に眼病治癒に霊験があるとして信仰を集めている。 追記:大徳院は長年プレハブの仮本堂のままであったが、平成25年(2013)自動搬送式納骨堂(両国陵苑)を備えた新しいビルになった。玄関を入ると御府内八十八ヶ所の参拝所があり、旧本堂前にあった弘法大師の石像が安置されている。御朱印は受付での対応、待つ間、館内の本堂にお参りさせていただいた。 |
公式サイト | http://www.daitokuin.jp/(※リンク切れ) |
写寺 | 東山 繁多寺 |
八十八ヶ所大意 | 御宮別当 大徳院 本所一ツ目元町 〈本尊〉東照宮御本地 薬師 寅の神 高野山金剛峯寺聖方三十六院惣触頭 在番所 〈朱印地〉二百石 ◇独礼 |
全景 | 玄関 |
本堂 | 旧観(仮本堂) |
中央の墨書は薬師如来の種字「ベイ」に「薬師如来」、脇に「弘法大師」。中央の朱印は同じく薬師如来の種字「ベイ」、 右上は「?」、左上は「第五十番」、左下は「大徳院」。
2010.03.10
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