墨書は「信濃国二之宮 小野神社」。朱印は「信州二之宮 小野神社」。
古今宗教研究所 >古今御朱印研究室 > 諸国神社御朱印集 > 長野県
小野神社 (おのじんじゃ) | |
---|---|
御祭神 | 建御名方神〔たけみなかたのかみ〕 |
旧称 | 小野大明神 (小野南北大明神) |
鎮座地 | 長野県塩尻市北小野175−1 (地図表示:マピオン) |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 信濃国二宮 旧県社 |
由緒 | 中央線小野駅の北約1km足らずの三州街道沿いに、ともに信濃国二宮とされる小野神社と矢彦神社が並んで鎮座している。かつては両社を合わせて小野南北大明神と称されたこともあったという。延喜式や六国史に記載された式内社・国史現在社ではないが、信濃国一宮・諏訪大社に次ぐ二宮として尊崇された。 もともと塩尻市北小野と辰野町小野を合わせた両小野地区は伊那郡に属する一つの村であったが、天正18年(1590)松本領主と飯田領主の領地争いのために南北に分割され、北方が筑摩郡小野村(塩尻市北小野)、南方が伊那郡小野村(上伊那郡辰野町小野)となった。小野神社は北方の鎮守である。 両社の社叢は一体となっており、長野県の天然記念物に指定されている。今に至るまでこの森を「たのめ(頼母・憑)の森」と称することから、両小野地区を憑〔たのめ〕の里とも呼ばれている。「たのめの里」の名は、清少納言の『枕草子』や鎌倉時代の『夫木和歌抄』に見えるという。 社伝によれば、信濃国に来た建御名方神は諏訪に入ろうとしたが、洩矢神〔もりやしん〕がいたために入ることができず、しばらく小野の地に留まった。崇神天皇の御代、その旧蹟に建御名方神を奉斎したことに始まるという。 武門の崇敬篤く、治承4年(1180)木曾義仲は当社で戦勝祈願をして出陣した。倶利伽羅峠〔くりからとうげ〕の合戦で勝利した後、奉賽として社殿を再建。この時、牛松明に点火して遷宮式を行ったことから、今も式年御柱祭に先立って行われる遷宮祭では、牛松明が焚かれる。 永禄7年(1564)には武田勝頼が梵鐘を鋳造し、鐘楼を建立して寄進している。この梵鐘は現在も残っているが、雨乞いのときに霧訪山で打ち鳴らし、山頂から転がり落としたために、乳(突起状の装飾)や鐘銘は摩滅している(ただし、銘文は古文書等によりほぼ全文が明らかになっている)。また、明治の神仏分離の際のものと思われる破損もあるが、塩尻市の文化財に指定されている。 天正10年(1582)深志城を回復した小笠原貞慶は、安曇郡西牧の慶徳寺山屋敷と寺領を小野神社に寄進した。 同19年(1591)松本領主・石川数正は旧領主・小笠原貞慶が小野神社に社領を寄進していることを根拠に小野村の領有を主張し、小野村が伊那郡であることを根拠に領有を主張する飯田領主・毛利秀頼と対立し、豊臣秀吉の裁定により小野盆地を中央で南北に分割し、北方が松本領として安曇郡に、南方が飯田領として伊那郡に属することとなった。この時、小野神社が北方の、矢彦神社が南方の産土神とされた。 慶長19年(1614)松本藩主・小笠原秀政、神領10石を寄進。同20年(1615)大坂の陣への出陣に際し、戦勝祈願のため松本藩林より御柱木を寄進した。以来、幕末に至るまで松本藩主が御柱木を奉納し、御柱祭には松本藩内52ヶ村が参加したという。 元和3年(1633)松本藩主となった戸田康長が神領10石を寄進。以後、享保10年(1725)に当時の松本藩主・水野忠恒が改易となり、北小野村が幕府領となるまで歴代藩主による寄進が続いた。 寛文12年(1672)松本藩主・水野忠直が社殿を再建。長野県宝に指定されている現社殿である。 明治5年(1872)村社に指定。同6年(1873)の御柱祭より北小野一ヶ村で行うこととなり、御柱木は村内有志の献木となった。同12年(1879)郷社、同33年(1900)県社に昇格。 小野神社・矢彦神社の御柱祭は諏訪大社の翌年・(卯と酉の年)に行われる。勇壮な諏訪大社の御柱祭に対し、小野の御柱はきらびやかな衣装で知られ、古来、「人を見たけりゃ諏訪御柱、綺羅を見たけりゃ小野御柱」と言われたという。 また、当社には塩尻市の文化財に指定されている鐸鉾という、一本の鉾に12個の鉄鐸と多数の麻幣を結びつけた祭器が伝わっている。御柱祭には、この麻幣をひとかけずつ結ぶ慣わしになっている。当社の境内に「御鉾様」という石があり、おそらくこの石に鉾を立て、神霊を招き降ろしたのであろうという。 |
例祭 | 10月第1土・日曜日 |
神事・行事 | 1月6日/御田作祭(ねんじり棒) 卯年旧5月の卯の日・酉年旧5月の酉の日/遷座祭 卯・酉年の5月2日/御柱祭 8月26日/御射山祭・風鎮祭(風祭) 9月1日/八朔祭 9月下旬/忠魂祭 |
文化財 | 〈県宝〉社殿四棟(本殿・副本殿・八幡宮本殿・勅使殿) 銅像千手観音坐像御正体残闕 〈県天然記念物〉矢彦・小野神社社叢 |
メモ | 小野神社と矢彦神社は元々一体だったようで、社殿・鳥居・社務所等は別々になっているが、境内全体は一つのような感じである。社殿を覆うように木々が繁る森厳な境内である。 手許の資料では、小野地区の分割以前の小野神社・矢彦神社(小野南北大明神)の様相がよくわからないのだが、諏訪大社との関係や数ある式内社を抑えて二宮となった経緯など、極めて興味深い神社である。 鳥居のそばには「信濃国二之宮 縣社 小野神社」という社号標があるが、鳥居前の道を線路のほうに向かって進むと、「信濃国二之宮 太社小野神社」という新しい社号標がある。 当社の本務社は塩尻市中西條の三嶽神社で、御朱印もそちらで拝受できる。祭事の際には小野神社でもいただけるのではないかと思われるが、未確認。 |
鳥居 | 鐘楼 |
庭園 | 御鉾石 |
境内社 | 芭蕉の句碑 |
勅使殿 | 左から八幡宮・本殿・副本殿 |
墨書は「信濃国二之宮 小野神社」。朱印は「信州二之宮 小野神社」。
2011.08.24
古今宗教研究所
Copyright(C) 1998-2016 Murakami Tetsuki. All rights reserved.