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古今御朱印研究室

諸国神社御朱印集

矢彦神社
やひこじんじゃ

矢彦神社神楽殿

矢彦神社 (やひこじんじゃ)
御祭神 〈正殿〉
大己貴命〔おおなむちのみこと〕
事代主命〔ことしろぬしのみこと〕
〈副殿〉
建御名方命〔たけみなかたのみこと〕
八坂刀売命〔やさかとめのみこと〕
〈南殿〉
天香語山命〔あめのかごやまのみこと〕
熟穂屋姫命〔うましほやひめのみこと〕
〈北殿〉
神倭磐余彦天皇〔かむやまといわれびこのすめらみこと〕
誉田別天皇〔ほんだわけのすめらみこと〕
〈明治宮〉
明治天皇〔めいじてんのう〕
旧称 矢彦明神 (小野南北大明神)
鎮座地 長野県上伊那郡辰野町小野3267 (地図表示:マピオン)
創建年代 不詳
社格等 信濃国二宮 旧県社
由緒 中央線小野駅の北約1km足らずの三州街道沿いに、ともに信濃国二宮とされる矢彦神社と小野神社が並んで鎮座している。かつては両社を合わせて小野南北大明神と称されたこともあったという。延喜式や六国史に記載された式内社・国史現在社ではないが、信濃国一宮・諏訪大社に次ぐ二宮として尊崇された。上伊那54ヶ村の総鎮守である。
もともと辰野町小野と塩尻市北小野を合わせた両小野地区は伊那郡に属する一つの村であったが、天正18年(1590)松本領主と飯田領主の領地争いのために南北に分割され、南方が伊那郡小野村(上伊那郡辰野町小野)、北方が筑摩郡小野村(塩尻市北小野)となった。矢彦神社は南方の鎮守である。位置的には塩尻市側に入っているが、矢彦神社の境内のみ辰野町の飛び地になっている。
両社の社叢は一体となっており、長野県の天然記念物に指定されている。今に至るまでこの森を「たのめ(頼母・憑)の森」と称することから、両小野地区を憑〔たのめ〕の里とも呼ばれている。「たのめの里」の名は、清少納言の『枕草子』や鎌倉時代の『夫木和歌抄』に見えるという。
社伝によれば、大己貴命が事代主命と建御名方命を従えて諸国を巡り、国造りを行われたとき、当地に立ち寄って弥比古沢の須賀の地に御在所を定められたという。また、日本武尊も東征の際に立ち寄られたという。古くから皇室の崇敬が篤く、成務天皇の御代に勅使が遣わされ、その子孫が当社に奉仕したとされる。
欽明天皇の御代、正殿に大己貴命と事代主命を、福殿に建御名方命と八坂刀売命を祀って須賀の宮と称した。また、南殿に天香語山命と熟穂屋姫命を祀り、矢彦神社の形が整えられたという。
天武天皇の御代、白鳳2年(674)に奉幣使・高根使主が遣わされ、この時、勅使殿が創建されるとともに、新宮が造営されて正遷宮祭と御柱祭が7年ごとの式年祭に定められたとされる。
延暦22年(803)坂上田村麻呂が戦勝祈願のために参拝、剣と弓を奉納し、別当・神光寺を創建した。清和天皇の御代には北殿に神倭磐余彦天皇をお祀りしたが、仁和3年(888)に大地震があり、社殿等倒壊して社運が衰微したため、延喜式神名帳にその名を留めることができなかったという。
天喜4年(1056)源頼義が戦勝を祈願、翌5年(1057)北殿に誉田別天皇を合祀した。寿永年間(1182〜83)木曾義仲は当社に戦勝を祈願して大勝したことから、奉賽として宮材を木曽山林から切り出して社殿を造営した。この時以来、慶応3年まで式年の新宮造営材は木曽山林から出材される慣わしになったと伝えられる。
天文年間(1532〜34)武田晴信が神領を寄進。永禄7年(1564)武田勝頼が梵鐘を寄進した(小野神社の梵鐘のことか?)。
天正10年(1582)小笠原貞慶が灯明料として1貫200文の地を奉献した。
同19年(1591)松本領主・石川数正は旧領主・小笠原貞慶が小野神社に社領を寄進していることを根拠に小野村の領有を主張し、小野村が伊那郡であることを根拠に領有を主張する飯田領主・毛利秀頼と対立、豊臣秀吉の裁定により小野盆地を中央で南北に分割し、南方が飯田領として伊那郡に、北方が松本領として安曇郡に属することとなった。この時、矢彦神社が南方の、小野神社が北方の産土神とされた。
慶長5年(1600)代官の朝日受永が神領として10石を寄進。慶安2年(1649)には徳川家光が朱印地10石を寄進した。式年新宮造営材の木曽山林からの出材は尾張藩によって引き継がれた。御柱祭には高遠藩より14ヶ村500人の人夫が参加、また騎馬一隊が派遣されたという。
明治5年(1872)郷社に列格。同24年(1891)式年新宮造営の木材を宮内省御料局より下賜される。これは昭和7年(1932)まで続き、「天賜材式年造営神社」と称された。明治27年(1894)明治遙拝殿を創建。同33年(1900)県社に昇格。
矢彦神社・小野神社の御柱祭は諏訪大社の翌年・(卯と酉の年)に行われる。勇壮な諏訪大社の御柱祭に対し、小野の御柱はきらびやかな衣装で知られ、古来、「人を見たけりゃ諏訪御柱、綺羅を見たけりゃ小野御柱」と言われたという。
例祭 10月第1土・日曜日
神事・行事 4月3日/神武天皇祭
5月1日/御下賜林記念祭
卯・酉年の5月2日/御柱祭
8月27〜28日/御射山祭
文化財 〈県宝〉社殿五棟(拝殿・左右廻廊・神楽殿・勅使殿) 〈県天然記念物〉矢彦・小野神社社叢
メモ 矢彦神社と小野神社は元々一体だったようで、社殿・鳥居・社務所等は別々になっているが、境内全体は一つのような感じである。社殿を覆うように木々が繁る森厳な境内である。
県宝に指定されている拝殿・左右廻廊・神楽殿は二代目立川和四郎冨昌の作。諏訪大社下社と同じ形式のようである。因みに冨昌は下社秋宮の神楽殿の棟梁も務めている。勅使殿は室町時代の形式を残しているという。
手許の資料では、小野地区の分割以前の矢彦神社・小野神社(小野南北大明神)の様相がよくわからないのだが、諏訪大社との関係や数ある式内社を抑えて二宮となった経緯など、極めて興味深い神社である。
御朱印は神社の向かいにある宮司様宅にて拝受。神社境内は辰野町だが、宮司宅は境外なので塩尻市になる。電話帳で矢彦神社が辰野町ではなく塩尻市に掲載されているのは、そのためのようだ。
小野駅そばの大鳥居 鳥居
小野駅そばの大鳥居 鳥居
手水舎(矢彦神社の御手洗) 神池
手水舎(矢彦神社の御手洗) 神池
境内社 勅使殿
境内社 勅使殿
拝殿 本殿群
拝殿 本殿群
矢彦神社の御朱印

墨書・朱印ともに「信濃国二之宮 矢彦神社」。

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2011.08.24
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