越前国一宮で、北陸道総鎮守と称する。延喜の制では祭神七座ともに名神大社に列せられている。また、境内社のうち摂社の角鹿〔つぬが〕神社をはじめ、大神下前〔おおみわしもさき〕神社、天利剣〔あまのとつるぎ〕神社、天伊弉奈彦〔あめのいざなひこ〕神社、天伊弉奈姫〔あめのいざなひめ〕神社が式内社である。
伊奢沙別命は笥飯(気比)大神〔けひのおおかみ〕、御食津大神〔みけつおおかみ〕とも称し、古くから当地に鎮座する神である。残りの祭神6柱は後に合祀されたという。
文献上では、『古事記』に応神天皇が太子の頃、禊ぎを行うために武内宿禰に伴われて角鹿(敦賀)へ赴いた際、夢に伊奢沙和気(伊奢沙別)大神が現れ、名前を交換したいと申し出たことが記されている。応神天皇はその名を称えて「御食津神」と名付けたことから、気比大神と称するようになったという。
また『日本書紀』には、神功皇后が武内宿禰・皇子誉田別尊(応神天皇)らに角鹿の笥飯大神を参拝せしめたこと、応神天皇が太子として初めて角鹿に赴いて笥飯大神を拝した際、大神と名前を交換したこと、持統天皇6年(692)神封20戸を寄進したことなどが記されており、古くから北陸の大社として重んじられていたことが伺われる。
社伝によれば、伊奢沙別命は二千年余り前に天筒山に降臨した後、現在「土公〔どこう〕」と称される境内の聖地に鎮座した。その後、大宝2年(702)社殿が造営され、仲哀天皇と神功皇后を合祀して本宮とした。その後、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に、玉姫命を平殿宮に、武内宿禰を西殿宮に祀って四社之宮と称した。
朝廷・武門の崇敬極めて篤く、宝亀元年(770)の中臣葛野連飯麻呂をはじめ、勅使による奉幣がたびたびであった。『新抄格勅符抄』の大同元年牒(806)には神封234戸と見える。承和6年(836)に正三位勲一等から従二位に進み、嘉祥3年(850)に正二位、貞観元年(859)従一位、宇多天皇の御代には正一位勲一等となっている。また承和7年(840)には御子神の天利剣神(天利剣神社)・天比女若御子神(天伊弉奈姫神社)・天伊佐奈彦神(天伊弉奈彦神社)に従五位下が奉授されている。
正安3年(1301)遊行上人2世の他阿真教上人が敦賀に滞在した際、気比社の西参道のあたりが沼地で、参拝者が難渋していることを知り、上人自らが先頭に立って、神官・僧侶・信者らとともに浜から砂を運んで道を改修した。この故事に因み、今も時宗の総本山・清浄光寺の遊行上人が交代したときには「遊行上人のお砂持神事」が行われる。
延元元年(1336)大宮司・気比氏治・斎晴父子は金ヶ崎城に後醍醐天皇の皇子である尊良親王・恒良親王を迎えた。しかし翌2年(1337)高師泰率いる足利軍6万余が押し寄せ、奮戦虚しく落城、尊良親王・新田義顕らとともに自害した。現在、金崎宮の摂社・絹掛神社に祀られている。
元亀元年(1570)織田信長の越前侵攻に際して大宮司・気比憲直は国主・朝倉氏を支援し、一族・神兵・社僧を挙げて天筒城に立て籠もり、織田の軍勢と激戦を演じた。そのため社殿・寺坊は焼失、社領は没収されて48家の祠官、36坊の社僧は離散して、祭祀は廃絶した。
その後、慶長19年(1614)越前藩主となった結城秀康は社殿を再建し、社家8家を再興、社領100石を寄進した。この社殿は明治39年(1906)旧国宝に指定されたが、惜しくも昭和20年(1945)戦災のために焼失した。なお、大鳥居は正保2年(1645)の建造で明治34年(1901)旧国宝に指定、現在は重要文化財である。
明治4年(1871)国幣中社に列格、同28年(1895)官幣大社に昇格、さらに神宮号を宣下されて気比神宮と称する。昭和20年(1945)空襲のために社殿その他の諸施設が焼失。同25年(1950)本殿、同37年(1962)拝殿を再建。同57年(1982)以降「昭和の大造営」として本殿を改修、幣殿・拝殿・儀式殿等が造営され、平成に入って四社の宮が再建された。
摂社の角鹿神社は都怒我阿羅斯等命〔つぬがあらしとのみこと〕を祀るが、敦賀(古くは角鹿〔つぬが〕)の地名はその名に因むとされる。都怒我阿羅斯等命は任那の王子で、崇神天皇の御代に気比の浦に上陸し、貢ぎ物を奉った。そこで天皇は気比神宮の司祭とこの地の統治を委ねたという。その政所の跡に創建されたのが角鹿神社の創祀とされる。末社の大神下前神社は大己貴命を祀る。気比大神四守護神の一で、もとは天筒山の麓に祀られていたが、明治になって現在地に遷座したという。
高野山・丹生都比売神社の気比明神は、弘法大師が末社・金〔かねの〕神社の霊鏡を遷したものとされる。末社・林神社は越中国礪波郡の式内社・林神社と同体で、伝教大師がこの社の霊鏡を遷したのが日吉大社の末社(下七社)・気比社であるという。