比叡山の東の麓に鎮座する。全国に約3800社あるとされる日枝神社・日吉神社・山王神社等の総本宮である。
元は「日枝」あるいは「比叡」などと書かれていたが、平安時代頃から好字の「吉」を当てた「日吉」も用いられるようになり、それに従って「ひよし」の訓みが併用されるようになった。鎌倉時代以降は「日吉」の表記が一般的になったという。
明治の神仏分離以降、「日吉神社」と書いて「ひえじんじゃ」と訓むのが正式名称とされた。さらに戦後、「日吉大社」と改称するとともに、訓み方も「ひよしたいしゃ」とされ、現在に至る。
境内には上七社・中七社・下七社の山王二十一社をはじめとして約40の社殿が鎮座する。最盛期には境内108社・境外108社があったという。中でも東西両本宮を中心とする上七社は山王七社とも呼ばれ、特に重視される。
東本宮に祀られる大山咋神は比叡山の地主神で、古事記には「この神は近つ淡海国の日枝の山(比叡山のこと)に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」とある。神代より牛尾山(八王子山・小比叡)に鎮座していた。社伝によれば崇神天皇7年(B.C.91)の創祀とされる。
西本宮に祀られる大己貴神は、大津京遷都の翌年である天智天皇7年(668)、大津京鎮護の神として大和国の大神神社より勧請された。
都が平安京に移されると、その鬼門に当たることから都の魔除け・災難除けの社とされた。延喜の制では名神大社に列し、二十二社の一ともされた。
さらに伝教大師が比叡山に延暦寺を開いてからは、比叡山の鎮守・天台宗の護法神として格別の崇敬を受けるようになり、天台宗の拡大とともに全国各地に勧請された。比叡山の山法師が強訴をする際に、日吉大社の御輿を担いで都に乗り込んだのは有名である。
山王権現の名は、中国天台宗の本山・天台山国清寺に祀られていた山王元弼真君に因む。中世においては天台宗の教理と山王信仰が結びつけられた「山王一実神道」が説かれた。
元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちにより当社も灰燼に帰したが、その後、豊臣秀吉らによって再興された。
明治の神仏分離によって延暦寺とは切り離され、境内の仏教施設は取り除かれた。また、それまで西本宮(大宮)の大己貴神が主祭神で、西本宮(二宮)の大山咋神は地主神として摂社の扱いであったが、もともと大山咋神が祀られていたということから大山咋神を主祭神とし、大己貴神は摂社の扱いとなった。昭和3年(1928)東西両本宮を対等として祭神二座とされ、現在に至る。