江戸六阿弥陀詣でとは、江戸の人々が春秋のお彼岸に行基菩薩の作と伝えられる六体の阿弥陀仏を巡拝したもの。
六とは六字名号(南無阿弥陀仏)に因む数で、六体の阿弥陀像は同じ一本の木から彫られたものと伝えられる。また、同じ木の余った根本の部分から彫られた一体を木余りの如来もしくは根元阿弥陀、さらに残りの部分から彫られた観世音菩薩を木残りの観音または末木の観音と呼ぶ。
札所は北区から足立区、江東区にかけて点在するが、かつて上野不忍池のほとりにあった第5番常楽院は、第二次大戦後、調布市に移転している。また、第2番は明治になって小台の延命寺から沼田の恵明寺に移されている。
かつては非常に盛んで、『江戸名所図会』にもその賑わいが描かれている。昭和13年の『武蔵野から大東京へ』(白石実三著)には、彼岸の一シーズンに巡拝する人は5、6万人、中日だけでも約2万人、しかも年々増加しており、ことに工場労働者の巡拝が目立って増えている、とある。第二次大戦直前まで、現在では想像もつかないほどの盛況だったことがうかがえる。
江戸六阿弥陀の創祀については、次のような話が伝わっている。寺によって細部が違うが、ここでは常楽院の伝に従う。
聖武天皇の御代、武蔵国足立郡に住んでいた従二位藤原正成(宮城宰相とも)という人は、非常に富裕で沼田の長者(足立長者とも)と呼ばれていた。しかし、長年子宝に恵まれなかったため、紀州の熊野権現に祈願し、霊験を得て一人の姫を授かった。
この姫は非常に聡明で見目麗しく成長し、人々から足立姫と呼ばれた。篤く仏を敬い、生涯を仏に捧げようと願っていたが、隣郡(豊島郡)の領主・豊島左衛門尉清光のもとへ嫁ぐことになった。ところが、清光の継母はことあるごとに足立姫につらく当たったため、姫は悲嘆の日々を送った。
ある時、姫は里帰りの機会を得て、5人の侍女とともに実家に向かったのだが、沼田川(今の隅田川)の畔まで来たとき、思いあまって川に身を投じた。5人の侍女たちも、姫の後を追って次々に川へ身を投げた。
娘の死に嘆き悲しんだ長者夫妻は、娘と侍女たちの供養のため、再び熊野権現に参詣した。すると、夢枕に権現が現れ、「そなたに一女を授けたのは、そなたを仏道に導くための方便であった。熊野山中にある霊木をそなたにさずけるので、仏像を造って広く衆生を済度せよ。近くそなたの館に行基という行脚の僧が立ち寄るので、六体の阿弥陀仏を刻んでもらうがよい」と告げた。
翌朝、長者が早速熊野の山中を探したところ、果たしてお告げの通りに光り輝く霊木があった。そこで、念を込めて霊木を海中に投じ、故郷へ帰ると、沼田の入り江に流れ着いていた。
そして、諸国巡錫の途中に立ち寄った行基菩薩に熊野権現の夢告の話をすると、行基菩薩も自分の見た夢と同じだと言った。そして、一夜のうちにその霊木から六体の阿弥陀如来を刻んだ。
大変喜んだ長者は、六女ゆかりの地に堂宇を建立し、それぞれ阿弥陀仏を安置した。
第一の寺は、西方浄土に生まれ出る福徳利益を授けるということから、西福寺と名付けた。
第二の寺は、家内安全・息災延命の利益を授けるということから、延命寺と名付けた(恵明寺に合併)。
第三の寺は、福寿無量に諸願を成就させるということから、無量寺と名付けた。
第四の寺は、我ら一切のものに安楽を与えるということから、与楽寺と名付けた。
第五の寺は、常に一家和楽の福徳を授けるということから、常福院と名付けた。
第六の寺は、未来は常に光明を放つ身を得させるということから、常光寺と名付けた。
これが江戸六阿弥陀の始まりであるという。
また、余った木で娘成仏の御影として一体の阿弥陀仏を刻み、長者の屋敷の傍らに草庵を建てて安置したのが木余りの性翁寺であり、残った木で刻んだ聖観世音菩薩像(末木観音)を安置したのが木残りの昌林寺とされている。
明治44年(1911)の『郊外探勝その日帰り』(落合昌太郎著)には、六阿弥陀の御詠歌が掲載されていた。それぞれに「南無阿弥陀仏」の名号の一文字と一から六の数字、各寺院の所在地(一番を除く)が読み込まれている。
武州江戸六阿弥陀順礼御詠歌
第一番
南の字からまわりはじめしその元木
一世のうちのゑんとなるらん (豊島)
第二番
無がなへはみのりのふねでこすぬまた
二たび元の道へ無かわん (沼田)
第三番
阿りがたや阿弥陀の浄土にしがはら
三がいしゅしゃうのこるものなし (西ヶ原)
第四番
弥なが今此世でたねをまけたばた
四かも佛花にみのるうれしさ (田端)
第五番
陀くさんにとなへしくちのこの下谷
五ともなしにひらくれんだい (下谷)
第六番
佛体をめぐりしまいしかめいどや
六しん南無や阿弥陀仏/\ (亀戸)