右上には「元卅七番札所 藤井山五徳智院 福圓満寺ノ裔」とある。中央の朱印は「高岡神社御璽」。
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中ノ宮(三の宮)
高岡神社 (たかおかじんじゃ) | |
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御祭神(仏号) | 〈一の宮(東大宮)〉 大日本根子彦太邇尊〔おおやまとねこひこふとにのみこと〕(不動明王) 〈二の宮(今大神宮)〉 磯城細姫尊〔しきくわしひめのみこと〕(観世音菩薩) 〈三の宮(中ノ宮)〉 大山祇尊〔おおやまづみのみこと〕・吉備津彦狭島尊〔きびつひこさしまのみこと〕(阿弥陀如来) 〈四の宮(今宮・西今宮)〉 伊豫二名州小千尊〔いよのふたなのしまおちのみこと〕(薬師如来) 〈五の宮(森ノ宮・聖宮)〉 伊豫天狭貫尊〔いよのあめのさぬきのみこと〕 |
旧称 | 仁井田五社 五社大明神 |
創建年代 | 不詳 |
創建 | 越智玉澄 |
所在地 | 高知県高岡郡四万十町仕出原100 (地図表示:マピオン) |
御詠歌 | 六つのちり 五つの社あらわして 深き仁井田の神のたのしみ |
メモ | 四万十川を望む山際に五つの社が散在する。江戸時代までは五社大明神と称し、37番札所であった。巡拝者は当社を参拝した後、岩本寺で納経したという。 社伝によれば、当地に移住してきた伊予の豪族・越智玉澄が祖神を奉斎したことを起源とする。玉澄は生年不詳で、天平19年(747)没とされる。越智守興の子だが、兄・玉興と不仲のため、土佐に移ったという。その後、玉興に子がなかったため、伊予に戻って後を継いだ。52番石手寺や旧55番別宮大山祇神社なども玉澄の創建と伝えられる。 天平年間(729〜48)行基が神宮寺として福円満寺を創建、さらに6ヶ寺を建立し、仁井田七福寺と称した。天長3年(826)には弘法大師が来錫し、六柱の祭神を五つの社に分祀し、それぞれ本地仏を祀った。以来、神仏習合となり、五社大明神と称するようになった。また、5ヶ寺を建立し、先の7ヶ寺と合わせて仁井田十二福寺と称するようになり、四国霊場に定められたとされる。 中世には仁井田郷68ヶ村の総鎮守とされ、また仁井田五人衆がそれぞれ一社を崇敬し、祭祀を司った。16世紀に福円満寺が退転した後は岩本寺が別当となり、納経を司るようになった。 明治の神仏分離により高岡神社と称するようになり、県社に列する。本尊等は移され(一時期、愛媛県の八幡浜にあったようである)、岩本寺が札所となった。 兼務社のため神職は不在だが、社務所にある連絡先に連絡すれば、紙に書いた御朱印をいただける。 |
東大宮(一の宮) | 今大神宮(二の宮) |
今宮(西今宮・四の宮) | 森ノ宮(聖宮・五の宮) |
右上には「元卅七番札所 藤井山五徳智院 福圓満寺ノ裔」とある。中央の朱印は「高岡神社御璽」。
2007.07.01
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