中央の墨書は弥勒菩薩の種字「ユ」に「鍬持大師」。弘法大師は弥勒の三昧に住しているということから、弥勒菩薩の種字で表す。中央の朱印は宝珠、右上は「四国番外霊場 鍬持大師本坊」、左上は「弘法大師点火 千二百年ともる 和光之灯安置之寺」、左下は「阿波国吉祥院」。
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全 景
如竟山 大慧金剛密寺 吉祥院 (にょきょうざん だいえこんごうみつじ きっしょういん) | |
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本尊 | 般若菩薩 弘法大師(鍬持大師) |
通称 | 鍬持大師 |
創建年代 | 延暦19年(799) |
開基 | 弘法大師 |
宗派 | 真言宗御室派 |
所在地 | 徳島県名西郡神山町神領字北上角18 (地図表示:マピオン) |
御詠歌 | 鍬を持ち衆生をすくう御誓願 のちの世までも変わることなし |
公式サイト | http://kisshoin.org/ |
メモ | 12番焼山寺から13番大日寺に向かう途中に、スレート葺きの新しいお堂がある。平成元年に回ったときにはなかったお堂である。 伝承によれば、当地はかつて山に囲まれた湖だったという。延暦19年(799)当地を巡錫した弘法大師は、人々が山の斜面に田畑を作って細々と生計を立てている様子を哀れに思われた。自ら鍬を持って村人とともに山の一角を切り崩し、湖の水を抜いて農地を開拓した。その際、庵を結んで般若心経を納めたのが始まりだという。 その後、庵は荒廃したが、天永2年(1111)興教大師の師である阿波上人青蓮大和尚が再興を発願、上人と親交のあった聖恵法親王(白河上皇の第五皇子)が本願となって吉祥院の院号を賜った。 庵は念仏道場として栄え、奈良の大仏を再建した重源正人なども参拝したという。しかし、戦乱の中で衰退し、廃絶してしまった。 この寺を近年、現住職がこの地に宮島山頂の消えずの霊火を迎え、仁和寺の院家格の直末寺として再建したものである。 参拝時、ちょうど住職さんが帰ってこられたので、直接納経をお願いし、いろいろ話をした。ゼロからの出発で大変だろうと思うのだが、とても明るく意欲的なご住職だった。まさに仏道の実践者という印象。こういう方に会うと、まだまだ仏教の未来は明るいと感じさせられる。快いひとときに感謝し、吉祥院の発展を心から祈念した。 |
本堂 | 堂内の荘厳 |
御朱印 |
中央の墨書は弥勒菩薩の種字「ユ」に「鍬持大師」。弘法大師は弥勒の三昧に住しているということから、弥勒菩薩の種字で表す。中央の朱印は宝珠、右上は「四国番外霊場 鍬持大師本坊」、左上は「弘法大師点火 千二百年ともる 和光之灯安置之寺」、左下は「阿波国吉祥院」。
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2008.05.18
更新:2009.04.17
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