日本書紀によれば、事代主神は神功皇后の三韓征伐に際して託宣を降した神の一柱で、その時名乗った尊号が「於天事代於虚事代玉籤入彦厳之事代主神」である。
そして、神功皇后が凱旋して難波に向かう途中、務古の水門〔むこのみなと〕で事代主神より「吾が御心長田国に祀るべし」という託宣があり、山背根子の娘・長媛(廣田神社の祭祀を司った葉山媛の妹)に祀らせたという。これが長田神社の起こりである。
なお、この時、天照大神の荒魂を廣田神社に、稚日女尊を生田神社に、住吉三神を住吉大社に祀っている。特に廣田神社・生田神社とは関係が深い。
貞観元年(859)には従五位上勲八等長田神に従四位下が授けられている。大同元年(806)には神封41戸が寄進された。たびたび祈雨の奉幣を受けており、延喜式では名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗及び祈雨の官幣に預かっている。中世には武将の崇敬も篤かった。
また、一般庶民からは、事代主を祀ることから「恵美主〔えびす〕さま」として、産業の守護神・開運招福の神として信仰を集めるようになった。
現在の社殿は昭和3年(1928)に再建されたもの。第二次大戦の戦災は免れたものの、阪神・淡路大震災で大きな被害を受け、約3年をかけて復旧した。昭和初期を代表する神社建築として国の登録有形文化財になっている。