日本書紀によれば、神功皇后凱旋の砌、紀伊の水門から難波へ向かったところ、海中で船が動かなくなった。そこで務古の水門〔むこのみなと〕に船を泊めて卜したところ、稚日女尊が「吾は活田長峡国〔いくたのながおのくに〕に居らむ」と託宣したので、海上五十狭茅〔うなかみのいそさち〕に祀らしめた。これが生田神社の創祀である。
この時、同じく神誨によって天照皇大神の荒魂〔あらみたま〕が廣田神社、事代主神〔ことしろぬしのかみ〕が長田神社、住吉三神が住吉大社に祀られたとされ、特に廣田神社・長田神社とは関係が深い。
稚日女尊は「若々しい日の女神」の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名とする。
因みに丹生都比売神社では、丹生都比売命〔にうつひめのみこと〕と同神とし、天照皇大神の妹であり、三韓征伐の奉賽として紀伊に広大な神領を賜ったと伝える。
古くより朝廷の崇敬篤く、大同元年(806)には神封44戸を賜っている。因みに神戸の地名は生田神社の神戸〔かんべ〕(神社の封戸)に由来する。貞観元年(859)には従四位下、同10年(868)には従一位に叙されている。元慶元年(877)には祈雨の奉幣があった。延喜式では名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗、さらに祈雨の官幣に預かった。
枕草子には「社は布留の社(石上神宮)。生田の社」あるいは、「森は大荒木の森、しのびの森、…生田の森」とある。
生田の森は多くの和歌に詠まれ、また一ノ谷の合戦や湊川の合戦では陣が敷かれるなど、その名を歴史に留める。今は社殿の背後に残るだけだが、かつては生田川まで広がっていたという。
また、かつて生田神社は北の砂山〔いさごやま〕(布引の滝付近)にあったが、洪水によって山麓が崩壊したため、現社地へ遷座したという。この時、社殿が倒れた松によって社殿が倒壊したため、生田の神様は松を嫌い、生田の森には松が一本もないと伝えられる。正月にも門松を立てず、杉盛り〔すぎもり〕を飾る。
社殿は第二次大戦の神戸大空襲で焼失し、昭和34年(1959)に再建されたが、平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で倒壊。翌8年(1996)復興された。
末社の大海神社は地主神で、猿田彦大神を祀り、全国の船舶関係者から信仰を集めるという。玉垣には海運会社や造船会社の名が刻まれている。夏の例祭は生田神社の夏祭りとして賑わう。