社伝によれば神武天皇33年(B.C>629) の創建。当地の開拓とともに祀られたと伝えられる。御祭神を天火明命とするのは明治以降で、それ以前は国常立尊あるいは大己貴命とされていた。天火明命は尾張連の祖神・天香語山命の父神である。
古くから朝廷の崇敬篤く、承和14年(847)には大縣神社とともに従五位下に叙せられ、貞観7年(865)には正四位上に進められている。延喜の制においては名神大社に列する。
中世においては尾張国の一宮とされる。鎮座地の一宮市の名は真清田神社が一宮であったことに由来する(同じ一宮市に鎮座する式内名神大社・大神神社を一宮とする説もある)。因みに二宮は大縣神社、三宮は熱田神宮とされる。尾張国において名実ともに第一の大社である熱田神宮が三宮とされるのは不思議である。国府からの距離による等の諸説あるが、定説はない。
鎌倉時代には順徳天皇が多数の舞楽面を奉納した。当社は舞楽が盛んで、かつては楽家数十家があったという。長く廃絶していた大嘗祭の久米舞が、文政元年(1818)仁孝天皇の大嘗祭から復興されたのは、当社の社家・林家のえぼし箱から譜面が発見されたことによるという。
江戸時代には、幕府より朱印地333石が寄せられた。尾張藩初代藩主・徳川義直も深く当社を崇敬し、寛永8年(1631)には社殿の大修理を行った。
明治18年(1885)国幣小社、大正3年(1914)には国幣中社に昇格。昭和20年(1945)戦災により尾張造の旧社殿は焼失したが、同32年(1957)再建された。拝殿(切妻造)−祭文殿(切妻造)−渡殿(切妻造)−本殿(流造)を連接した形式で、真清田造と称するという。