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古今御朱印研究室

宝永年間から享保年間にかけ、深川に住んでいた地蔵坊正元が寄進を募り、江戸の入り口となる六ヶ所の寺院に銅造の地蔵菩薩坐像を造立した。これが「江戸六地蔵」である。

地蔵菩薩は「六道能化」の菩薩と呼ばれるように、釈尊が入滅してから弥勒が下生するまでの無仏期間、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界)で迷い苦しむ衆生を教化・救済するとされる。六道それぞれの衆生を救済することを表しているのが六地蔵である。

さらにこの六道の守護者ということから、道や旅人、あるいは境界の守護者としての性格が付与され、村の入り口や峠などに祀られるようになった。五来重先生は『石の宗教』において、日本古来の「塞の神」との関連を指摘されている。

伝えられるところによれば、不治の難病に冒されて苦しんだ地蔵坊正元は、一心に地蔵菩薩に祈願する両親の姿に心打たれ、自らも地蔵菩薩に祈願して、病気平癒のあかつきには地蔵菩薩像を造立することを誓ったという。

霊験を得て病気が癒えた正元は、自ら誓願したとおり、京の六地蔵に倣って六体の地蔵の建立を発願し、宝永5年(1708)品川寺(品川区南品川)を手始めに、東禅寺(台東区東浅草)・太宗寺(新宿区新宿)・真性寺(豊島区巣鴨)・霊巌寺(江東区白河)・永代寺(江東区富岡)に地蔵菩薩像を造立した。

残念ながら、永代寺の地蔵菩薩像は明治の神仏分離で永代寺が廃寺になった際、派客されてしまったが、残り5体は現存し、東京都の有形文化財に指定されている。

その後、上野の浄名院の妙運和尚(八万四千体の地蔵尊建立を発願したことでしられる)は、永代寺の地蔵尊が失われたことを惜しみ、また日露戦争の戦没者を弔うため、明治39年(1906)浄名院境内に江戸第六番地蔵として地蔵尊の像を造立した。これを江戸六地蔵の一体とするか否かは意見がわかれるようだが、ここでは新6番として掲載した。

第1番 第2番 第3番 第4番
海照山 品川寺
(東海道)
品川区
南品川三丁目
霞関山 太宗寺
(甲州街道)
新宿区
新宿二丁目
医王山 真性寺
(中山道)
豊島区
巣鴨三丁目
洞雲山 東禅寺
(奥州街道)
台東区
東浅草二丁目
第5番 第6番 新6番
道本山 霊巌寺
(水戸街道)
江東区
白河一丁目
大栄山 永代寺
(千葉街道)
江東区
富岡一丁目
東叡山 浄名院
 
台東区
上野桜木二丁目

一般に江戸六地蔵は江戸の出入り口となる六つの街道沿いに造立されたとされる。たしかに品川寺・東禅寺・太宗寺・真性寺については、それぞれ東海道・奥州街道・甲州街道・中山道沿いにある。

ところが霊巌寺・永代寺については、それぞれ水戸街道・千葉街道に対応するとされるのだが、実際にはかなり距離があり、街道の守護というには無理がある。霊巌寺と永代寺については、特に街道とは関係ないと考えるのが妥当であろう。

江戸時代、江戸と各地を結ぶ街道のうち、最も重要だったのが五街道である。そのうち、奥州街道と日光街道は宇都宮まで共通であるため、品川寺・東禅寺・太宗寺・真性寺の四体で五街道に対応することになる。

思うに、霊巌寺・永代寺の二体については、五街道に対応する四体の地蔵尊を建て終えた地蔵坊正元が、残り二体を自分の生まれ育った深川のお寺に造立することにしたのではないだろうか。五街道に対応する四体では、深川の位置する江戸の東側ががら空きになることも関係しているかも知れない。

とはいえ、ここでは一応、霊巌寺は水戸街道、永代寺は千葉街道の守護とする通説にしたがって表記することにした。

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2009.10.07
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